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2015年5月23日土曜日

The Osaka democracy: 大阪市住民投票を終えて

維新の会の政治を最初におかしいと思ったのは、いつのころだっただろうか。私がはっきりと覚えているのは君が代斉唱の不起立を実行した教員に対する処分だった。思想・良心の自由への侵害をこれほどはっきりと目にするとは思ってもいなかった。どこかおかしいという感覚はほとんどあきらめに変わっていった。それでも特別区設置の住民投票はおかしいと思っていた。

住民投票の前日にSADL( http://sadlosaka.wix.com/sadlosaka )の活動に参加することにしてみた。デモに参加して、そのあと街頭でまちの人たちと話をした。街頭に出た瞬間、「デモクラシーだよ!デモクラシー!」って、自然と言葉が出てきた。その言葉は、ビラを配っているときにも決して頭から離れることはなかった。毎日のように地道にビラ配りをしながら、特別区の問題点を指摘し続けた人たちには、私にデモクラシーという言葉を口に出させたあの感覚はよりはっきりと感じられるものだったと思う。

テレビで何度も何度も民主主義って言葉を聞いてきた。たとえば、市長はこんなことを言っていた。「有権者は政治家を選んで、選ばれた政治家が決断をする。そして政治家の活動は次の選挙で審判を受ける。有権者は次の選挙で政治家を落とすことができる。これが民主主義なんです」。その政治家は、住民投票を「究極の民主主義」とも述べていたらしい。

けれども、それらが本当に民主主義なのだろうか。選挙があるまで、市民はただ待つしかできないのだろうか。一部の住民を投票から排除した住民投票が民主的だと言えるのだろうか。イエスかノーという二つの選択肢から選ぶことが民主主義なのだろうか。そもそも判断しなければならない議題は、私たちの関心ごとだったのだろうか。市民がお互いに議論する場所を潰し、膨大な宣伝費用で市民に宣伝をすることが民主主義なのだろうか。

大阪の政治についてだけ違和感があったわけではない。バラバラなようでどこかまとまりのある一連のこの違和感には、反ファシズム、反レイシズム、ANTIFAといった様々な表現が与えられている。これらはどれも不正な力の否定ないし拒絶の表現だ。これに対して、民主主義という言葉はポジティブな言葉だ。いまや私たちの拒絶は積極的な意味を帯び始めている。実際に、民主主義という言葉は様々な拒絶に形を与える言葉になりつつある。

多くの人が、民主主義という言葉を使い始めている。いつも会う人、たまに会う人、彼/彼女が発する民主主義という言葉は、もはや単なる言葉ではない。民主主義を語るときに発する「私たち」という言葉に実感がわかなければ、そこに民主主義はない。抽象的な民主主義という言葉はもういらない。民主主義という言葉をからっぽにさせないために、私たちは、横にいるあなたの力、違和感を大切にしているあなたの力を、今ここで必要としているのだ。

民主主義が特定の時間と空間の中で固有性を帯びる瞬間、きっとそれは今ここにある。それを逃せば私たちの違和感は絶望へと変わってしまうだろう。私たちのこの民主主義が拡がれば、私たちの抱えている違和感を解消することができるだろう。そして「この民主主義」は、「あの時代の民主主義」となり、不正に違和感を感じる人々にとって希望の種となるだろう。

沖縄、東京、大阪、次に始まるのはどこだ。