維新の会の政治を最初におかしいと思ったのは、いつのころだっただろうか
。私がはっきりと覚えているのは君が代斉唱の不起立を実行した教
員に対する処分だった。思想・良心の自由への侵害をこれほどはっ
きりと目にするとは思ってもいなかった。どこかおかしいという感
覚はほとんどあきらめに変わっていった。それでも特別区設置の住民投
票はおかしいと思っていた。
住民投票の前日にSADL( http://sadlosaka.wix.com/sadlosaka )の活動に参加することにしてみた。デモに参
加して、そのあと街頭でまちの人たちと話をした。街頭に出た瞬間
、「デモクラシーだよ!デモクラシー!」って、自然と言葉が出て
きた。その言葉は、ビラを配っているときにも決して頭から離れる
ことはなかった。毎日のように地道にビラ配りをしながら、特別区
の問題点を指摘し続けた人たちには、私にデモクラシーという
言葉を口に出
させたあの感覚はよりはっきりと感じられるものだったと思う。
テレビで何度も何度も民主主義って言葉を聞いてきた。たとえば、
市長はこんなことを言っていた。「有権者は政治家を選んで、選ば
れた政治家が決断をする。そして政治家の活動は次の選挙で審判を
受ける。有権者は次の選挙で政治家を落とすことができる。これが
民主主義なんです」。その政治家は、住民投票を「究極の民主主義
」とも述べていたらしい。
けれども、それらが本当に民主主義なのだろうか。選挙があるまで
、市民はただ待つしかできないのだろうか。一部の住民を投票から
排除した住民投票が民主的だと言えるのだろうか。イエスかノーと
いう二つの選択肢から選ぶことが民主主義なのだろうか。そもそも
判断しなければならない議題は、私たちの関心ごとだったのだろう
か。市民がお互いに議論する場所を潰し、膨大な宣伝費用で市民に
宣伝をすることが民主主義なのだろうか。
大阪の政治についてだけ違和感があったわけではない。バラバラな
ようでどこかまとまりのある一連のこの違和感には、反ファシズム
、反レイシズム、ANTIFAといった様々な表現が与えられてい
る。これらはどれも不正な力の否定ないし拒絶の表現だ。これに対
して、民主主義という言葉はポジティブな言葉だ。いまや私たちの
拒絶は積極的な意味を帯び始めている。実際に、民主主義という言
葉は様々な拒絶に形を与える言葉になりつつある。
多くの人が、民主主義という言葉を使い始めている。いつも会う人
、たまに会う人、彼/彼女が発する民主主義という言葉は、もはや
単なる言葉ではない。民主主義を語るときに発する「私たち」とい
う言葉に実感がわかなければ、そこに民主主義はない。抽象的な民
主主義という言葉はもういらない。民主主義という言葉をからっぽ
にさせないために、私たちは、横にいるあなたの力、違和感を大切
にしているあなたの力を、今ここで必要としているのだ。
民主主義
が特定の時間と空間の中で固有性を帯びる瞬間、きっとそれは今こ
こにある。それを逃せば私たちの違和感は絶望へと変わってしまう
だろう。私たちのこの民主主義が拡がれば、私たちの抱えている違
和感を解消することができるだろう。そして「この民主主義」は、
「あの時代の民主主義」となり、不正に違和感を感じる人々にとっ
て希望の種となるだろう。
沖縄、東京、大阪、次に始まるのはどこだ。
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