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2016年1月18日月曜日

国民の物語としての安倍談話――語られざる沖縄とアメリカ

 初出:在日コリアン人権協会「季刊Liber」、2015年11月号、22-25頁. (脱稿8月26日)戦後70年安倍談話に関するがテーマの号で、すばらしい論考ばかり。以下本文
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 安倍首相は2015年8月14日、戦後70年にあたって談話を発表した。この談話は日本ないし国民を主語にして語られており、国民の公的な歴史として参照される可能性をもっている。つまり、談話の発表は、国民の物語の公式化だったのである。しかし、この物語は、私たち一人一人の物語を踏まえたものだというわけではない。それゆえ、私たち一人一人が談話をどのように理解するかを考えることが重要である。そのためにも、談話を批判的に吟味しておく必要がある。この小論では、談話の基礎となった懇談会の報告書をふまえて談話の内容を考察したい。
  
 安倍首相は、談話の発表に先立って、懇談会を開催している。その懇談会とは、20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)である。懇談会の座長は、西室泰三、座長代理は北岡伸一が務めている。まず懇談会の開催にあたって、安倍首相が議論すべき6つの論点を提示している。それらの論点をめぐって、会合で、幾人かの研究者が基調報告をし、委員がその報告について議論している。それぞれの報告を中心にまとめられたのが、安倍首相に提出された最終報告書である。

閣議決定を経て発表された談話は、端的に言えば、国民の過去、現在、未来に関する物語である。国内については沖縄、国外についてはアメリカの位置づけに注目しつつ、ここで談話の内容について具体的な検討を始めたい。

まず、談話は、近代日本の出発に関する語りで始まる。西欧諸国の植民地競争という文脈の中で、日本は近代国家としての歩みを始めたとされる。しかし、一八七九年の沖縄の編入については語られていない。近代化の過程の中で、現在の日本の境界線の内部へと琉球が吸収されていった過程は語られていないのである。

次に、第二次大戦中に戦った国々との「和解」の歴史についても、談話は語っている。報告書では、アメリカ、イギリス、オーストラリア、東南アジア、韓国、中国との和解の過程が説明されている。ここで和解がもっともうまくいったとされるのが日米の両国である。しかし、報告書は日本がアメリカの政治的影響下におかれたことと、和解を混同している。たとえば、自民党の成立に関するアメリカの影響、沖縄に集中する米軍基地の存在とその経緯を考えれば、日米関係を和解と理解することは難しい。なお、談話は赦しを与えた国への感謝を示すものではあったが、寛大さを示さない国に対する拒絶をほのめかしている。このことは、主体性を強調する戦後責任という表現ではなく相互性を強調する和解という表現が採用されたことの帰結である。

さらに、未来について、談話は「自由・民主主義・人権」などの価値とその実現、日本の世界への貢献について語っている。談話が強調するのは、共通の価値をもつ国々との協力である。ここでは特定の国の名は挙げられていない。しかし、報告書が示すところによれば、典型はアメリカである。裏を返せば、談話は、「価値を共有」しない国とは世界の平和を作ることができないという考えを示している。「国際社会の挑戦者」やテロには、力の行使の可能性が残されているようにも思われる。

要するに、談話は民族の物語であるが、談話にははっきりと語られていない歴史やメッセージが存在するのである。談話が主張する物語は次のようなものであった。つまり、過去のマイナスは戦後におけるプラスによって清算され、今や私たちは「積極的平和主義」の名のもとに国際貢献を行うという物語である。しかし、この物語は美化されすぎている。なぜなら、その美しい物語には、沖縄の独自性の軽視、アメリカとの信頼関係の自明視という、影の部分が存在するからである。

沖縄とアメリカに関する報告書の記述をさらに吟味するとき、むしろ談話の物語の醜悪さが見えてくる。報告書は沖縄の基地問題を解決しなければならないとしている。にもかかわらず、談話は沖縄の地位について沈黙している。安倍首相は意識的にこの点に触れなかったのである。

また、報告書は、日米同盟の強化の必要性をはっきり主張している。しかし、談話は日米同盟について語っていない。そもそも、報告書は、アメリカのネガティブな側面を批判的に検討していない。アメリカの対イラク戦争、イラク戦争における日本の関与ついては分析さえされていない。

安倍政権は談話の物語を事実化しようとしている。現在、沖縄とアメリカに関連する政治的決定を安倍政権は行なっている。沖縄県民の強い反対にもかかわらず、安倍政権は米軍普天間基地の辺野古移転によって、沖縄における米軍基地の恒常化を試みている。

もっとも、談話の発表の数日前、8月10日から、政府は辺野古の工事を中断させている。9月9日までの1か月間、沖縄と協議を行うためである。しかし、政府は従来の立場を変えたわけではない。計5回の協議のうち、3回の協議が終わった段階で、県との協議は平行線をたどっている。結局のところ、審議中の安全保障関連法案の通過のために、融和的な態度を一時的に示しているに過ぎない。

同時に、安倍政権はアメリカとの軍事同盟の強化をすすめている。集団的自衛権の行使を容認し、安全保障法制の改正法案を政府は議会に提出している。法案の改正は、アメリカとの軍事関係を強化することを主目的にしている。驚くべきことに、政府は議会での法案の可決に先立って、法案の成立をアメリカと約束さえしている。アメリカの軍隊と自衛隊による共同訓練の回数は、ますます増えている。

一方、談話の物語が抑圧しようとするエピソードが、安倍政権の批判者たちによってはっきり語られるようになっている。沖縄では、米軍普天間基地の辺野古への移転に対する抗議が連日行われている。沖縄への基地の押し付けに対する不満は、沖縄県民のアイデンティティーの強化をもたらしている。また、沖縄を含む日本全国で、安保法制の改正に対する抗議が行なわれている。そこでは、自衛隊と米軍の一体化に対する不安が表明されている。日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性があるからである。さらには、日米安保の自明性も問われ始めている。

安倍首相が談話を国民の前で発表していたら、罵声を受けることは避けられなかっただろう。安倍首相が語る国民の物語と、国民が実際に語る物語には大きな隔たりがある。戦後70年を迎える2015年はまだ終わってはいない。言い換えれば、安倍談話が歴史に残るのか、それとも抗議の声が歴史に残るのかは、未だ明らかではないのである。2015年の終わりに戦後70年の国民の物語を語ったとしても、決して遅くはないだろう。



2015年9月2日水曜日


初出: 在日コリアン人権協会「季刊Liber」、2015年8月夏号、19-20頁


 今年の8月15日、日本は戦後70年という歴史的節目を迎える。70年という長い時間をどのように捉えるかということは、1980年代初頭に生まれた私にとって容易なことではない。そこで、日本国民の一人として、2013年から始まった在日コリアンへの差別に対する抗議運動を私になりに振り返りつつ、日本におけるその運動の意義を考えてみたい。
 
 2年前の2013年の初頭、反原発運動の流れから、差別的デモ、差別的街頭宣伝に対する直接的な抗議の動きが東京で生まれた。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)、特にTwitter(ツイッター)というインターネット上の情報交換の場で、差別デモに対して直接的に抗議する必要があるという発言が広まった。それが契機となり、差別デモに対する抗議が行われた。大阪でも、同様の呼びかけがなされ、差別的街頭宣伝・デモへの抗議が始まった。カウンターと呼ばれる市民による自発的な抗議行動は、さらにその後各地に広がっていった。
 
 抗議活動は、目の前の差別的行為を封じ込めるという目標だけではなく、多様性のある社会を作ることも目標としてきた。2013年の夏には「OSAKA AGAINST RACISM 仲良くしようぜパレード(通称仲パレ)」が大阪で、秋には「東京大行進」が東京で行われた。それぞれのパレードは翌年の2014年にも開催された。

 反差別運動の目下の焦点は、差別扇動発言(ヘイトスピーチ)の法的規制ができるかどうかという点にある。現在、自治体レベルでの規制が検討されている。もちろん、差別扇動発言の規制で差別が終わるということはないだろう。しかし、規制によって、ひとまず差別街宣・デモを抑えこむことができる。また、これは、包括的人権擁護法の制定、在日コリアンのさらなる法的保障につながるものでもある。

 在日コリアンが多く住む関西を別にすれば、抗議運動の参加者のほとんどは日本人である。参加者は、程度の差はあるものの、日本人としての当事者性を自覚している。彼らは醜悪な差別的言動が「日本の恥」だと考え、差別を放置しておくことが不正にくみすることだと考えている。彼らは、差別を無くすことで、より公正な社会を作りだそうとしているのである。

 このことは、国家主義や自民族中心主義とは異なるということを強調しておきたい。まず、差別者たちが抗議者たちを在日だと勝手に思い込んでいることもあり、抗議者たちは日本人であることを戦略的観点から強調している。また、彼らは「自分たちの都市は自分たちが維持する」という市民感覚から抗議に参加し、主権者が差別を根絶するのに大きな力をもっていることを知っている。さらに、カウンターの現場でも、日本人と在日コリアンは対等な関係で差別主義者に向き合っている。LGBTの当事者や沖縄の人たちの権利のために尽力している人たちも多く、連帯が生まれている。
  
 差別との闘いは、自由民主主義を守るための闘いでもある。日本における在日コリアンへの差別は、日本の北朝鮮・韓国に対する反感と固く結びついている。差別 主義者たちはその敵意をデマで煽っている。彼らが作りだす不安感を利用し、安倍政権は安全保障政策の転換、改憲をめざしている。それゆえ、差別の封じ込め は、私たちが戦後に与えられた民主主義を自分達のものにする契機となりうるのである。

(脱稿7月21日)

2015年8月22日土曜日

ミネソタ州におけるブラック・ライブス・マター、2014年12月20日 (Bkack Lives Matter in Minesota )

  2014年12月のクリスマスに、ミネソタ州ミネアポリスを訪れた。空港から、モール・オブ・アメリカと呼ばれる全米で最大とされるショッピング・モールに行った。そのとき、まったく偶然なのだけれど、黒人差別と警察の不当な行為に対する抗議に出くわした。これは、ブラック・ライブス・マターが主催する抗議だった。

  2014年、 ファーガソンで黒人が警官に不当に殺されたことをきっかきに抗議が生まれた。その後、アメリカで繰り返される黒人に対する警官の不当行為のたび、抗議も広まっていった。その流れは、別の機会に書きたい。いずれにせよ、そのような流れは、ミネアポリスにも訪れたわけである。

  抗議に遭遇したといっても、抗議を直接見たわけではない。空港から車でモールに向かう途中、同乗者たちが、モールで何か起こるらしいと語っているのが聞こえた。モールの駐車場に入るまでに、たくさんのパトカーとシェリフの車が並んでいた。駐車場では、Black Lives Matterと大きく書かれた車が駐車されているのを見かけた。

   私たちがモールに入るとき、警察官と警備員によって抗議者たちが排除される様子をかなり遠くから見えた。私たちがモールに入ったあと、抗議者たちのアピールの場となった大きなホールでは、まだ騒然としていた。




  3階か4階から部分からホールを眺めている黒人女性がいた。とりあえず話しかけて、何が起こっているのかを聞いた。彼女は抗議の様子を教えてくれ、そして私に写真を見せてくれた。その写真を撮らせてもらった。それが下の写真だ。




  その日から数日間、寝る前に少しずつ何が起きていたのかを調べてみた。そもそもの発端は、ファーガソンでの出来事だった。ミネアポリス周辺でも、たとえば公園に居た知的障害をもつ黒人が警察官に射殺されたり、スーパーでおもちゃの銃をもっていた黒人男性が射殺されるということがあった。(14年の12月に調べたことです。検索してもすぐに出てこないので記憶違いかも。。。)うる覚えて書くが、かなりひどいことだと記憶している。

  12月5日、ブラック・ライブス・マターの呼びかけで、デモが行われる。そしてハイウェイでダイ・インが行われた。

  12月19日モール・オブ・アメリカでデモが企画されていることがニュースで流れている。SNSを通じて、かなり情報は拡散されていたようである。




そして、12月20日当日の様子。
まずは、当日のニュース。



当日の様子を写した映像




 
  さて、この抗議がなぜ、このモール・オブ・アメリカで行われたのか。とうぜんそこは、私的な土地である。しかし、この全米一の大きさをもつとされるモールには、多額の公的な資金が入っているらしい。主要な理由は目立つからということだが、そのような理由からここで行うことが正当化されたようである(抗議できる場所が減っているのは日本も同じだと思った)。 入っている店舗についても、人種問題があったようにも記憶している。

  ミネアポリスにおけるブラック・ライブス・マターは、2015年に入っても続いている。

リーフレット「安倍さんにおたずねします」

 
 



2015年5月23日土曜日

The Osaka democracy: 大阪市住民投票を終えて

維新の会の政治を最初におかしいと思ったのは、いつのころだっただろうか。私がはっきりと覚えているのは君が代斉唱の不起立を実行した教員に対する処分だった。思想・良心の自由への侵害をこれほどはっきりと目にするとは思ってもいなかった。どこかおかしいという感覚はほとんどあきらめに変わっていった。それでも特別区設置の住民投票はおかしいと思っていた。

住民投票の前日にSADL( http://sadlosaka.wix.com/sadlosaka )の活動に参加することにしてみた。デモに参加して、そのあと街頭でまちの人たちと話をした。街頭に出た瞬間、「デモクラシーだよ!デモクラシー!」って、自然と言葉が出てきた。その言葉は、ビラを配っているときにも決して頭から離れることはなかった。毎日のように地道にビラ配りをしながら、特別区の問題点を指摘し続けた人たちには、私にデモクラシーという言葉を口に出させたあの感覚はよりはっきりと感じられるものだったと思う。

テレビで何度も何度も民主主義って言葉を聞いてきた。たとえば、市長はこんなことを言っていた。「有権者は政治家を選んで、選ばれた政治家が決断をする。そして政治家の活動は次の選挙で審判を受ける。有権者は次の選挙で政治家を落とすことができる。これが民主主義なんです」。その政治家は、住民投票を「究極の民主主義」とも述べていたらしい。

けれども、それらが本当に民主主義なのだろうか。選挙があるまで、市民はただ待つしかできないのだろうか。一部の住民を投票から排除した住民投票が民主的だと言えるのだろうか。イエスかノーという二つの選択肢から選ぶことが民主主義なのだろうか。そもそも判断しなければならない議題は、私たちの関心ごとだったのだろうか。市民がお互いに議論する場所を潰し、膨大な宣伝費用で市民に宣伝をすることが民主主義なのだろうか。

大阪の政治についてだけ違和感があったわけではない。バラバラなようでどこかまとまりのある一連のこの違和感には、反ファシズム、反レイシズム、ANTIFAといった様々な表現が与えられている。これらはどれも不正な力の否定ないし拒絶の表現だ。これに対して、民主主義という言葉はポジティブな言葉だ。いまや私たちの拒絶は積極的な意味を帯び始めている。実際に、民主主義という言葉は様々な拒絶に形を与える言葉になりつつある。

多くの人が、民主主義という言葉を使い始めている。いつも会う人、たまに会う人、彼/彼女が発する民主主義という言葉は、もはや単なる言葉ではない。民主主義を語るときに発する「私たち」という言葉に実感がわかなければ、そこに民主主義はない。抽象的な民主主義という言葉はもういらない。民主主義という言葉をからっぽにさせないために、私たちは、横にいるあなたの力、違和感を大切にしているあなたの力を、今ここで必要としているのだ。

民主主義が特定の時間と空間の中で固有性を帯びる瞬間、きっとそれは今ここにある。それを逃せば私たちの違和感は絶望へと変わってしまうだろう。私たちのこの民主主義が拡がれば、私たちの抱えている違和感を解消することができるだろう。そして「この民主主義」は、「あの時代の民主主義」となり、不正に違和感を感じる人々にとって希望の種となるだろう。

沖縄、東京、大阪、次に始まるのはどこだ。